会話アパート


前編


もう、何日になるんだろうか。
このアパートに来てから記憶さえ曖昧だ。
どうだったかな、ここへ来たキッカケは。ぼんやりと寝起きの冴えない脳みそをユサユサと揺らして思い出してみる。
「どうしたの?」
・・・女性の声だ。
俺は、冷静だ。
「ブシュ・・・ああ、いや、なんでもない」
うん、俺は、冷静だ。
いや、嘘だ。
ちょっとビックリして、ハナミズが出た。
ティッシュで鼻をかみながら、彼女の存在を思い出して、そして、この場所にいるきっかけを思い出した。
「もう、何日たったんだろうな・・・」
・・・もはや、数え切れないほど繰り返した質問だった。
「わからない」
・・と彼女もまた、数え切れないほど繰り返した答えを投げ返す。
俺は、自分の家に居るのだ。
いや、正確に言うと、居る筈なのだ。










俺はごく普通の会社に勤めているサラリーマンだ。
いつもどうりの日常を過ごし、また、そのXデイもいつもどうり。
仕事を終えて、満員電車に乗って、自宅へ向かう。
また、それも俺の器を鏡写しにしたような、凡庸なアパート。
我が家の玄関を開ける。


そこは見たこともない部屋。
ぎょっとした。
ここはドコだ!?
凡庸な、どこにでもある部屋といえばそうだ。
だが、俺の部屋ではない。
部屋を間違えたわけじゃない。
現に鍵を開けて部屋に入ったのだ。
「俺の部屋・・・?」ポツリと呟いた瞬間。


「お帰りなさい」


女が居た。
ぎょ!
その二度目の仰天に心臓がドクンと脈打ち、慟哭が始まる。
ヘタヘタとコンニャクのようにその場に座り込んでしまった。
腰が抜けたのだ。
女性は、相変わらず、鎮座している。
あたかも、居て当然のような様相を呈したまま、そこに鎮座している。
俺は、ゴホンと咳払いをして、緊張をほぐすべく・・・ああ、そうだ、この時もハナミズでたな。
そうだそうだ、そうだった。
俺は女性の手前、恥ずかしくなって顔を背けたんだ。
すると、彼女はゆっくりと立ち上がって、こちらへ向かって、そして、ハンカチで俺のハナミズを拭ってくれた。
なんだ、これ?なんだ、この状況?


一気に緊張の糸が切れて笑い出したんだ。
「ふ・・・ふふ・・・あはははははは!」
・・それを見た彼女もまた、笑った。
クスクスと。
上品な笑い方だ。


冷静を取り戻した俺は、彼女に聞いた。
此処はドコだ?
此処は俺の部屋のはずだ。
いや、俺の部屋ではないんだけど、俺の部屋がある筈の場所だ。
そして、君は誰だ。
「わからない」・・・と、彼女はこの先、幾度となく口にすることになる言葉を俺に投げた。














急にゾクリとした。
踵を返し、玄関のドアを開けようとした。
・・・開かない。
鍵が掛かっているというよりも、びくとも、ピクリとも動かないのだ。
普通なら、鍵を閉めた状態でも、ドアには「遊び」のような隙間がある。
鍵が掛かっていても、強引に動かせばガチャガチャなり、ドンドンなりの音が出る。
しかし、今まさに俺が体験した感触というのは、壁だ。
壁にドアノブをつけている感触といえば、伝わりやすいのか。
再度襲う慟哭を必死に気付かないフリをしながら、部屋全体を見渡してみる。
窓がない。
というか、この部屋からは外の様子が全くわからない。
気が付けば、そういえば、外界の音さえ全く聞こえない。
自分の置かれた状況がそら恐ろしく感じた。


俺はここから出られない。


この異様な空間に畏怖した。
驚愕して、そして狼狽。
「あ・・・・あ・・・・うわああああああああああああ!!」
俺は気が狂ったようにドアを叩く。
そしてまた、先ほどの感触と同じ事に、改めて認識をした。
泣き喚いた。気が狂ったように。


・・・気が付くと、どうやら寝ていたようで、そしてまた、この部屋に居る自分に恐怖して、泣き叫び、ドアを叩く。
全ての努力が全くの無駄であると気が付いたのは、もう数日たってからだった。
その間、彼女は黙って、俺を見ていた。
そして、俺があきらめた様子を見て、ポツリポツリと、話しかけてくれた。


どうやら、彼女は先客らしい。
彼女も、また、被害者?なのだ。
いつもどうりの凡庸な生活の中、突然、この部屋へ辿り着いた。



ただ、彼女について、一つ疑問に思ったことがあった。
俺が入ってきた事に驚かなかったからだ。
まるで、入ってくるのを知っていたという様子で。
この状況ならば、入ってきた俺を見るなり、外へ出られる可能性があるということじゃないか。
なのに彼女は、さも冷静に、俺のハナミズを拭くという、この余裕の行動。
その不可解な行動に疑問を抱いた。
しかし、聞き出せない。
というよりも、質問できなかった。
怖かったのだ。
彼女が一体、いつから此処に居るのか、が。
気が狂うほどの時間を既に過ごしているのかもしれない。
そして、その事実を知ってしまう恐怖に耐えれない自分がいるから。
だから、そこだけは、聞けずに居た。










彼女の名前はヤヱ。



「監禁」が始まって一週間がたったころ。
その深いあきらめが、全く底の見えないあきらめの中で、やがて、彼女を愛し始めた。
自分を保つために、いや、正直に言うと、発狂してしまわないように。
そうすることで、自分を保てるような気がした。


そして、俺たちは最初のセックスをした。
















後編